2015年6月28日日曜日

young man



アメリカの全州で同性の結婚が認められたそうだ。


ホワイトハウスは虹色にライトアップされ、facebookにはポートレイトを虹色に加工できる機能まで付いてるみたい。

なんかすごいなあ。


あまりに問題は複雑だと思うので簡単な事はいえないけれど、現在の異性との婚姻制度と同じレベルで、男性と男性、女性と女性、半分ぐらい男性と、半分ぐらい女性、とかいろんな人と人との愛情が、公的に認められるのは凄くいい事だなあと思う。

僕は、物事を二つとかにはっきりわけるのは好きではなくて、そんなにはっきりとわけれえないグラデーションの、まさに虹のような、さまざまな感情や生き方に興味があるから、そもそも「男」とか「女」っていうのがどうも気に食わないんだけど、でも、やっぱり、それは思想的なものであって、「人間」は基本的に男性の身体と女性の身体、二つのうちどちらかに、はっきりとわけられて生まれてしまうのだから、そこに違う役割が付くのは当然で、性行為においても、入れる方とられる方は全然メンタル違うと思うし、そこはどうしようもないなあと。

でもその「分かれ」を悲観的にとらえてるわけじゃなくて、その「分かれ」こそ美しく愛おしく、哀しいものだから、ちゃんと向き合っていかなきゃな、って思うしね

もちろん、身体自体を変えていく抗い方とか、本当に色々あると思うけれど。



そういえば前にゲイセクシャルのひとが言っていた言葉が、すごく自由で軽い気持ちになれたな。

「ヴァギナを欲するのと同じように、ペニスを欲するだけ」


それ以外の違いはないのだ〜











village peopleの同性愛の自由を歌った歌なのに
日本では雰囲気だけになった歌 
この日本という国でも他者との違いにもっとゆるやかでおだやかな認識が公的にも広がればいいな




Just go to the Y.M.C.A. Young Man, Young Man, I was once in your shoes Young Man, Young Man, I was out with the blues


Y.M.C.Aに行こう!若者よ! 俺も君と同じ境遇だったんだ若者よ! 俺も1人で悲しみに暮れたんだ




2015年6月22日月曜日

大丈夫であるように


最近、ひょんなことからバンドのPVを依頼されたので、その参考にとミュージシャンの映像を観たりしているのだけど、そのなかで軽い気持ちで観たCoccoのドキュメンタリー「大丈夫であるように」(是枝裕和監督)にとてもダメージを受けた。


内容としては、日本全国を巡るCoccoのツアーを追っているだけなんだけど、その旅のなかでも激しく揺れ動く彼女の強くて弱いこころと、まっすぐに飛んでいく歌声と、繊細で正直な言葉が胸を打った。


彼女自身沖縄の出身で、「日本」という国の「米軍基地」という問題を押し付けられて、それでもそこで笑顔で生活しなくちゃ行けない苦しさとか、戦争を経験した世代の人の悲しみとかを凄く感じて、背負っていて、彼女の代表曲のひとつ「ジュゴンの見える丘」は、米軍基地の移設が予定されている辺野古の海に突然現れた二頭のジュゴンが由来になっていたことも初めて知った。歌詞の


悲しみはいらないやさしい歌だけでいいあなたに降り注ぐ全てが正しいやさしいになれ



は、沖縄に住む彼女の祖母達の世代の人達を想って書いたんだと。


僕自身沖縄の問題は、まだほとんど何も知らないし、修学旅行で一度行って、戦争跡地を観て、ただ打ちのめされて帰ってきただけで、沖縄という場所にまだ能動的に関われてない。でも、南の島はすごく好きだし、沖縄の音楽も好きだし、なにより知らないままじゃ行けない事が、あの場所には、あの海には沢山あると思うから、行こうと思ってる。それをより思った。時間はそんなに無い。


映画にこんなシーンがある。
彼女が青森にツアーに行った時、ファンの一人が、「六ヶ所村」についての手紙を送ってきて、彼女はその場所を訪れる。六ヶ所村は核燃料の再処理工場で、「日本」という国のエネルギー政策のしわ寄せが溜まっているような場所。
その様子をみた彼女は衝撃を受けて、自身のライブで、青森の方達に、泣きながら謝る。

自分は沖縄の新聞で沖縄が主語のことしか知らなくて、日本の人に沖縄に来て欲しい、おじいに会って欲しいと思ってたけど、自分は六ヶ所村の事は何も知らなかった、と。


そして沖縄のライブで沖縄の方達に向けて、こう話す。


 「 自分たちもよ、誰かに何かを託してて押し付けてるっていうのもよ、     ただ生活してるだけでよ。

    核のものはみんなで出したものであって、   でもそれを押し付けられてる小さな村もあって   それを受け入れようとしている村人がいて…

   自分たちだけが被害者じゃないっていうのを、   あっちゃん(Cocco)若い人達は意識しながら、   自分たちもなにかをしてしまっていること、   自分たちが知らない事が、まだまだ日本だけでもいっぱいあるっていうのを わからんといけんな、と思った!

   そんな時にも、歌をうたうんだけどよ、あっちゃんはよ… 」



いまこうしている時間にも、いろんなひとにいろんなことを押し付けて、迷惑をかけて、傷つけている僕の生活を、本当に考えなきゃなと思う。


前回福島に行った時、原発で作業してる人達にも何人かあって、あの人達の、家族も故郷もある人たちが背負う覚悟って、とても打ちのめされて、自分の存在ややっていることが、凄く情けなく歯がゆくなった。この先、彼らともっと話をしたり、現地に行ったりしたいって思ってる。

でも福島の事以外でも、たとえば自分の家族の事とか、友達とか、そういうことでも、いえる話だと思うから、遠くばっかりみないで、近くもみたり、遠くを近くにしたりしながら、頑張るよ。

ながくなったので、そろそろおわります。


最後に、タイトルの由来になっている、彼女の言葉をかいておきます。
つよくてやさしい。
cocco、いままでちゃんと聞いた事無かったけど、ちゃんと聴こう。




「 みんなが、立ち向かおうとしてる事とかが大丈夫ってあっちゃんは言えないし、
   大丈夫じゃない事もいっぱいあると思うし。
   でもよ、大丈夫 ってたぶん自分で決めることだからよ、
   自分で大丈夫にするしか たぶんないばよ。

   だけどよ

   大丈夫でありますように って

   思ってる事は 確かだから
   だから、みんなが、進むべき道と、進みたい道と、明日と将来と、夢と、
   いろんなことが、

   大丈夫であるように、って


   思ってます。


  以上です!」





2015年6月18日木曜日

in my life


窓の外は雨が降っている。

6月の雨は、凄く好きだ。一番好きだ。

高校生くらいまでは、湿っぽくてうざったかったんだけど、年を噛み締めていくごとに、その情感に心動かされるようになった。美しいと思う。

音が美しい。優しい。無理してない。強いらない。ただ、降っている。降ってくれている。できることなら6月の雨の頬を撫でたい。でも君はどこにもいない。

姿形もない。

だから僕はこうして、


なにかをつくり続けるんだけど。


いつかきみに届くように。


いつかきみに触れられるように。




(なんかこういう感じって、自己陶酔っぽくて嫌われるのかなあ?)




最近、季節が巡るごとにより深刻に感じるのは、去年の季節の頃のことや一昨年の季節のことや、もっと前のこと。
自然と思い出している。

「生きる」ってことは、「思いで」を積み重ねていくことなんだなあ、と深々思う。
6月の温い雨が、そのことを僕の身体に染みわたらせてくれる。

べつにノスタルジーなわけじゃないんだけど…。まあノスタルジーでもいいんだけど。


でも僕にとっては、よくわからない未来なんてわりとどうでもよくて、思いでだけが自然と、雨にまぎれて、そこに降っていれば、生きていることに満足できるってこと。

それだけじゃお腹が空くとしてもね。




さいごに、ビートルズの「in my life」はっとくぜ。




Though I know I'll never lose affection
For people and things that went before
I know I'll often stop and think about them
In my life I love you more


去っていった人たちや物への
愛情が消えることはないよ
きっとこれからも何度も、ふと思い出すだろうな
でも僕はこの人生で、それ以上に君を愛したい










2015年6月17日水曜日

社会派



「作品が社会派だね」といわれることがたまにある。
取り組む内容が内容だから、そう言うこともわかるけど、そういわれると「社会なこと」と「社会じゃないこと」がはっきり分けられてしまったような感じがして、すごく寂しい気持ちになる。


ためしにその言葉を大辞林で調べてみると、



しゃかい‐は〔シャクワイ‐〕【社会派】






現実の社会問題に重きをおく傾向。また、そのような人。「―の小説」「―の映画監督




だそうだ。なんかださい。


たとえば、誰かが大切なひとを失ったとする。
もうその人は歩けないほどに打ちのめされて、立ち上がれないとする。
それも、その人にとっては、現実の社会問題 だとおもう。
それも最も重大な。
もちろん、社会の教科書に載っているたくさんの事象も大事なんだけど、でもすべて、そういうひとりひとりの個人の苦しみや疑問や、希望や愛情が、本当に複雑に連なって折り重なって、すべての 現実の社会問題 ができているのだから、問題の差はあれど、どれも重大な社会だと思う。


その堪え難い苦痛に、「戦争」とか「震災」ということばがくっつくと、必要以上に距離ができてしまうとおもう。「社会なこと」と「社会じゃないこと」という感じで。
もちろん、「当事者」とそうでないひと(それもはっきりとは分けられないけど)の違いはあって、その心遣いは絶対に必要なんだけど、でも、そういう「社会派」な言葉に騙されて、その奥にいるひとりひとりの社会の問題を感じれないのは、寂しい事だと思ふ。

自分の胸に言い聞かせながら、そんなことを思う6月の夜。



最後に、忌野清志郎の言葉と素敵な歌はっとくぜ。



社会的なメッセージを歌っているのは僕にとってはごくふつうのことなんですよね。
いろいろなことを偏らずに歌わないと。
世間のこととか政治的なこととか、ふつうに歌っていけばいいんですよ。 忌野清志郎


「ひとつだけ」