2020年8月31日月曜日

あのとき同じ花を見て


いま僕は 気づいたら現代美術と言われる場所で作品を作っていて

形態は絵画ではないので、すごく頼りない

頼りないっていうのは たとえば曲みたいに 誰かが知らない間に口ずさんでくれない

絵画みたいに そこにない

何をやってんだかきっとよくわからないし、自分でもなんでやってんだかよくわからない 時もある 励ましてくれるなら すごく惨めになってくる

ある素敵な友達に言われた

 「なんでもいいけど、誇りだけは持てよ」

数年前の、神田の、人気のない居酒屋だったかな。彼はそうしておごってくれた。

誇り、かあ、

つまらない話を撫で回したくはない

もうそんなことは飽き飽きなんだ


すべての言葉はなんだか借りもののような気がして

多分それは気がするだけじゃなくて本当で


何かこう、生きた証のようなものが

どうしても欲しくなってしまう


この前、作品の売り買い の関係をテーマにした NITO 二人 というアートスペースの展示に参加して、作品を買ってくれた人がいた。


いつも展覧会をしていて、終わるとすごく孤独感というか、虚脱感がある

どんな風に見た人の心に残っていくのかがわからないからだ


だから、買ってくれる、っていうのは少なくともそこにいていいんだ、と思えてずっと嬉しかった。

今でもすごく印象に残っているのだけど、2009年にフォーク・クルセダーズの加藤和彦さんが自ら亡くなった時、遺書に書いてあった言葉 


"私のやってきた音楽なんてちっぽけなものだった。世の中は音楽なんて必要としていないし"


ここにあるのに、あなたの歌がここにあって心に鳴っているのに、ちっぽけとか、必要ないとか、そんなことあるはずないのに、


その言葉を思い出すたび、いつもそう感じる 

世の中 っていうのはどこにあるんだろう?

、、 なんだかひどく青臭い漫画のセリフみたいなことをいってしまったよ 思わずね


世の中は必要なくても、僕にはきっと必要だった 僕にはちっぽけなんかじゃなかった


一人で生きていると なぜそれが感じれないのだろう

僕が今までしてきた作品のようなものたちを すごいミュージシャンと並べては全然話せないけど


遠くのどこかで突然流れ出すあなたのメロディをあなたが感じることができたら

かすかな僕のメロディを 誰かが口ずさむときに それを感じることができたら

死なずにすむのかもしれない  君も僕も…









2020年8月20日木曜日

すれ違い

 いうならはっきり言っていいんだよ

 

下手な翻訳で言葉がすれ違って 意味が変わってしまう


下手な言葉の読み合いが まずいカレーみたいに舌を上滑りする


氷の地面の下に透ける野菜や いつかの面影や 隙間を泳いでいくお魚 


流れている曲を聴く 歌詞に耳を立てる 少ししょうもない歌詞で少しがっかりする

音は好きなんだけどな  だからと言って全部を嫌いにならなくていい


基本的には愛してる 


愛という言葉は安易に使うと全く説得力というか、実感がなくなって見えるから不思議だ


あい、というのは語感がいいので、つい何も考えずにいると口走ってしまいそうな言葉だ。


英語では、言葉が詰まった時によく、” I..I, I... I "と、あい をなんども繰り返す場面に出くわすことがある。あれはいいなと思う。


僕は日本語の一人称表現は全く気に入っていないので、一人称が透明な音と化していく感覚が、とても惹かれる。


なにかすごく言いたいことがあるわけではなくて


いやあるんだけど


でも言ってしまうと


いや


隠してるわけではなくて


今は言いたくない


お前の無神経なでも悲しそうな笑顔を夕陽が刺す時に

私は見ないふりをする 



なぜそうしたかは きっといつかわかる