2021年11月24日水曜日

I wish you could speak



最近、いろいろあって(いろいろあった、隠したいわけじゃないけど、、)まわりの友達とかも好きな人も多いけど、観葉植物をお部屋に飼って(?)見ることにした。おすすめの育てやすい品種を教えてもらったので、その品種を呟きながら、今まで素通りの極みだったお店の茂みを眺める。関心ごとが増えると、町を歩いていて、膝(脚?)が反射的に止まる回数が増える。
もはや目的地にたどり着けないくらい、反射的に立ち止まってしまう。

…いや、なんか言いたげな抽象的な話にすぐにつなげたくない。今一瞬なんかつなげようとしてる自分がいた。いい話(ためになるような)風にもしたくない。でも何かへのレジスタンスとしてだけのために噛み砕いた話をしたいんじゃない。ああ、言葉を書いては消していく、いったい誰と戦っているんだろう、深呼吸、とか書いてる時点で、、もういいや、、、、、、

そして、おすすめだったビカクシダ(コウモリラン)を買う。名前がかわいい。コウモリ…。あとビカク、も鹿の角という意味らしく、「このかたち動物に似てるな〜」なんて思って誰かがつけたんだろうな、わりと軽いノリだなあと思う。

何かに似てる似てないじゃなくて私(僕)だけの名前をつけてよ〜って思うかもしれない。なんだろう、形的な印象だとたとえば、

サニュロン、ナスナソス、ファブラリー、サリサリヌ、、とかそんか感じかな、擬音的に言えば、、

それで、帰ってきて、サリサリヌのためにきれいにした棚の上に置いて、でもググったらこの時期は水はあまりやると根腐れするというので、お水をあげたいうずうずする気持ちを抑えて、、数日 日差しだけをあげていると、なんだかぐったりしてるというか、角度が下がっていて、あれ…と思ってお水を土に注いで一晩すると、すっごい角度上昇していた。艶すら感じた。水欲しかったんだね、ごめんねぇと思ったんだけど、こんなに反応がビビットだと気になって仕方なくなってしまう。ちらちら見てしまう。まあきっとずっとそうじゃないんだろうけど…飼いたてで驚きが多いのかな。でも責任を持って飼うんだよ。

植物ってなんだか静的なものだという印象があったけど、とっても動的なんだねえ というか、周りと繋がっていて、すごく彼らの身体でそれを態度にしてるんだね どれぐらい彼らが(場合によるだろうね)”コミュニケーション”したいとしてそれを態度にしてるかはわからないけど、身体に態度するので、感じ取ってしまうね

”喋っているように感じる” のは、自分が今まで見てきたものや今の感情の集合体が動員されてその想念としてそんなふうに感じてるのかな そういった想念みたいなものでも別にいいんだけど、そうじゃないものもあるのかもしれない。”スピってる” って自虐的に言ってる人とか、軽くそういう人をあざけるときに使われるけど、自虐的な時はその照れ隠しの感じが可愛い。他人に使われるときは、”厨二病”みたいな感じで自分を違うところに置いて笑う感じがあんまり好きくない、って誰のこと言ってるんだみたいなね 
あんまり抽象的な話で他人を遠回しに批判したくない するなら具体的に される時も ああ

コウモリランの英語の学名は platycerium プラティケリウム っていうらしい。wikiによると、latys (広い)と keras (角)の2語からなる「広い角」を意味し、普通葉がオオシカの角に似ていることに由来するらしい。



…もう、みんなよってたかって何かに例えるのが好きなんだから!

そんなことで安心しないでよね、ぷんすか!(?)







久しぶりにそれまでのブログを見たら、生と死について切羽詰まって書いているものが多くて、それはそうなんだけど、それはずっとそうなんだけど、胸から離れないんだけど、それだけだと悲しくなっちゃうので、いや悲しくてもべつにいいんだけど、いややっぱり悲しいのは悲しいのかもしれない





2021年2月2日火曜日

生き続ける


ときどき、自分の人生はもうずっと前にどこかで終わっていて、今はその続きを見ているような気分なることがある


街をおぼつかない足取りで歩くとき

待ち合わせ場所で君を待つとき

トイレに立ったあなたの座っていた椅子を見つめるとき

空の雲が僕に何か詩を書かせようとして陳腐な言葉しか思いつかないとき

なんでもいいんだけど


それはいいことかはわからない

でも投げやりに生きてるわけじゃないんだよ

できる限り目の前の人を愛したいと思っているのだし


言葉はどこに書けばいいのかわからない

どこに書いても きっと君のことも僕のことも救えない

きっと心からは


でも少しだったら救われるのかもしれない

ぜんぶは無理かもしれないけど maybe


だから 部屋で悲しいふりなんてしてないで いや部屋にいてもいいし

ふりでも 心も身さえ裂くような苦痛や悲愴でもいいんだ

なんでもいいから 言葉でちゃんと伝えたい

言葉じゃなくてもいい 伝えられる方法があるのなら

なんでもよくはないんだよ

言葉を選んだ方がいいよ メロディーを選び取ったほうがいい

考えすぎないほうがいい 考えすぎぐらいがちょうどいいんだよ

人にもっと会ったほうがいい  苦しんでまで会わなくてもいい

だけど 苦しいくらいがいいんだ


今日 夜の公園を歩いて帰っていたら、シャッフルでこの曲が流れてきて、

泣きそうになったよ 最近は英語が、

前よりも湿度と重みを持って感じられるようになる瞬間が増えているから

それは僕に語りかけられているような気がするんだ


ね、

そんな瞬間があるんだよ


生き続けていればきっと


でも生き続けてなくても そんな瞬間がどこかであるかもしれないね

あって欲しいんだよ


君に向かって誰かが語りかけてることを

君が炸裂する光のように感じられる瞬間が


たとえ生き続けていなかったとしても










2020年8月31日月曜日

あのとき同じ花を見て


いま僕は 気づいたら現代美術と言われる場所で作品を作っていて

形態は絵画ではないので、すごく頼りない

頼りないっていうのは たとえば曲みたいに 誰かが知らない間に口ずさんでくれない

絵画みたいに そこにない

何をやってんだかきっとよくわからないし、自分でもなんでやってんだかよくわからない 時もある 励ましてくれるなら すごく惨めになってくる

ある素敵な友達に言われた

 「なんでもいいけど、誇りだけは持てよ」

数年前の、神田の、人気のない居酒屋だったかな。彼はそうしておごってくれた。

誇り、かあ、

つまらない話を撫で回したくはない

もうそんなことは飽き飽きなんだ


すべての言葉はなんだか借りもののような気がして

多分それは気がするだけじゃなくて本当で


何かこう、生きた証のようなものが

どうしても欲しくなってしまう


この前、作品の売り買い の関係をテーマにした NITO 二人 というアートスペースの展示に参加して、作品を買ってくれた人がいた。


いつも展覧会をしていて、終わるとすごく孤独感というか、虚脱感がある

どんな風に見た人の心に残っていくのかがわからないからだ


だから、買ってくれる、っていうのは少なくともそこにいていいんだ、と思えてずっと嬉しかった。

今でもすごく印象に残っているのだけど、2009年にフォーク・クルセダーズの加藤和彦さんが自ら亡くなった時、遺書に書いてあった言葉 


"私のやってきた音楽なんてちっぽけなものだった。世の中は音楽なんて必要としていないし"


ここにあるのに、あなたの歌がここにあって心に鳴っているのに、ちっぽけとか、必要ないとか、そんなことあるはずないのに、


その言葉を思い出すたび、いつもそう感じる 

世の中 っていうのはどこにあるんだろう?

、、 なんだかひどく青臭い漫画のセリフみたいなことをいってしまったよ 思わずね


世の中は必要なくても、僕にはきっと必要だった 僕にはちっぽけなんかじゃなかった


一人で生きていると なぜそれが感じれないのだろう

僕が今までしてきた作品のようなものたちを すごいミュージシャンと並べては全然話せないけど


遠くのどこかで突然流れ出すあなたのメロディをあなたが感じることができたら

かすかな僕のメロディを 誰かが口ずさむときに それを感じることができたら

死なずにすむのかもしれない  君も僕も…









2020年8月20日木曜日

すれ違い

 いうならはっきり言っていいんだよ

 

下手な翻訳で言葉がすれ違って 意味が変わってしまう


下手な言葉の読み合いが まずいカレーみたいに舌を上滑りする


氷の地面の下に透ける野菜や いつかの面影や 隙間を泳いでいくお魚 


流れている曲を聴く 歌詞に耳を立てる 少ししょうもない歌詞で少しがっかりする

音は好きなんだけどな  だからと言って全部を嫌いにならなくていい


基本的には愛してる 


愛という言葉は安易に使うと全く説得力というか、実感がなくなって見えるから不思議だ


あい、というのは語感がいいので、つい何も考えずにいると口走ってしまいそうな言葉だ。


英語では、言葉が詰まった時によく、” I..I, I... I "と、あい をなんども繰り返す場面に出くわすことがある。あれはいいなと思う。


僕は日本語の一人称表現は全く気に入っていないので、一人称が透明な音と化していく感覚が、とても惹かれる。


なにかすごく言いたいことがあるわけではなくて


いやあるんだけど


でも言ってしまうと


いや


隠してるわけではなくて


今は言いたくない


お前の無神経なでも悲しそうな笑顔を夕陽が刺す時に

私は見ないふりをする 



なぜそうしたかは きっといつかわかる 





2020年7月21日火曜日

光の粒々


子供の頃からテレビや広告で自然とよく見ていた同い年の青年の俳優が自ら命を絶ってしまった。彼とは直接会ったこともないし、意識的に彼の出演作を見たりとかそういうことをしていたわけではなく でも すさまじく悲しく 印象的な彼の顔の表情が乱反射して僕は混乱して 絶句しながら 悲しみに明け暮れている

そういう人が人生には何人もいる 直接知っているわけではないのに  (あるいは直接会っても言語の壁などであまり話せないかもしれない)
知らずに自分の一部になっていて、その存在が生きることの一部に駆動している 
屋上に上がって漫然とビルの立ち並ぶ光の粒を眺めても 中途半端な役に立たない感傷ばかりが押し寄せて ただその一つ一つを覗こうとしても  のぞいたところで彼らの一人一人とわかりあえるわけじゃない ただ

その光の粒の中にあなたが生きていると感じれることと 
もういないことは  本当に全く違う その光の粒が無意味なものになってしまうぐらい違うと思う

大事なことは表面には見えない
夜を立ち並ぶ光の粒々は綺麗だけれど それだけでしかない

もっとあなたのことを知りたかった 

でも知れなかったとしても

あなたがこの抽象的な光の粒々を具象的に描きかえて 僕の心にあなたの形で輝いているから

今までの人生で出会ったほとんど全ての人が
すくなくとも 僕の心でいろいろな形とあり方で輝いている

彼のことをあまりに何も知らないので
これ以上何も言えない

ただ、僕の勝手にくりぬいた彼の姿の光が僕の一部を締め付けるように悲しくさせて止まらなく

止まったと感じたとしてもずっと疼いていく

誰か知っている人が亡くなったとき  息の止まるような悲しみはもしかしたらそのうち少し止まるかも知れないけれど
その深い悲しみは 僕が死んでしまうまで曖昧に、重く、僕を誰かを痛めつけていく

ご冥福を、

ご冥福を、、

いや、あなたの人生になんどもあっただろう輝いた一瞬、素晴らしい一瞬 出逢い 笑い
その瞬間があなたの中で消えさらずに今も幸せでいてほしい

僕はあなたに逢えてよかった 君は僕のことをまったく知らないけど

僕はあなたに逢えてよかった

そして今も幸せでいてほしい

押し寄せる光の粒があなたのためだけに泣いている
あなたの知らないところで あなたのために祈っている

誰かが白けるつまらないことを口走っても

きっと

かならず・・・





2020年3月4日水曜日

君は一人じゃないから


わけもなく電車に乗りたくなる。

どこにもいかず、なにもなかった日はとくに
電車に乗ると何かをした気になる
誰かと何かになった気になる

話すのや目を見るのではない微弱なコミュニケーションが僕のいる車両やその連結して走る機体に帯びて、今動いているんだという音が、誰も彼もの体を少し振動させる

空いた電車の話だ

混んだ電車はno thank you

「人恋しい」と片付けてしまうとつまらない
歩いていける町でも電車に乗って行きたい気分なんだ

僕がいつか もしかしたら今日 明日 
例えば入院をしたり 自由に好きな時に外へ飛び出せなくなったとき

ふつうに電車にそうしていることがどれほど自分にとって大切な時間だったかを知るだろうな

言葉なんて交わさなくていい

そしたら僕たちは知り合ってしまう

そんなことよりも大事なつながりだって
ここにはあるんだよ きっと


曾一直哭著  你是掠食者
以必死決心 發起的政變
已經夠了唷 因為
這樣的你 再也不是一個人了

ずっと泣いてた 君はプレデター
決死の思いで 起こしたクーデター
もういいよ そういうの
君はもうひとりじゃないから




2019年12月11日水曜日

わからないあなたが



ひさしぶりにぶろぐを投稿してみる。
こういうのは、なにも書くことを考えずに、手を打ち込みはじめるほうがいいのだと信じて、今書いている。


曖昧に空間に目を向けながら、くるしいかなしいもうたえられないとぼんやり感じていても、自分の気持ちが自分でわからないから。そういう時は、紙なりPCなりを出して、手や心が頭より先に進んでいくことにまかせて、そうして自分の今感じていることが、なぜそれが苦しいのか、すこしわかるような気がするから

そういえば、ぶろぐ編集欄を見たら、ずっと前に、書いて途中でやめていた文章があったので、ここに貼ってみる。

ーーー

そうやって茶化してくれたほうが僕は気が楽だ

いつだって笑いながら君と話がしたい

難しいことは何1つないはずなんだ

でも、うまくいかない

いつも悪い未来ばかりを想像してしまう

映像で自分自身の声を聞くことがたまにある

すごく悲しかったはずなのに、意外と自分の声が明るく聞こえることがある

ということは、明るいのかもしれない

どこで間違ったのかなあとぼんやり思い返してみても、
結局のところわからない

ーーー

ああ、あの時かあと思い出す。あれは今から半年ぐらい前のことで、それは今でもほとんど同じように、毎日、つらく心に刺さっているのだけど、解決することはできない

たまに「時間の無駄だ」という言葉を聞く
いつもそれに違和感があって、というか、「時間の無駄だなあ」と自分自身が感じた瞬間が本当にないから、つまりさみしい気持ちになる
まして、それがどんな人であったとしても、僕は人と会う時間を、過ごしたことを、無駄だった、なんて思ったことはない

なんだか仮想の意見に、異論の言いにくいような正論のようなことを書いてるようで自分がくだらなく思えるのだけど、でも、本当にそう思っている

だからたった一回会った人でも、枕のような心のふくらみに鉤のようにめり込んで毎日思い出してみたりする
自分の時間なんて大したことないって心の底で思っているからかもしれない
そこに守るべきものは本当はそんなにない気がする

旅から帰ってきて、「やっぱりあらためて自分の故郷のすばらしさに気づいた」みたいなのはくだらないと思う そんな旅はしたくない
旅っていうのは、元いた場所にはもう絶対に戻れないんだっていう覚悟の(実際そうだと思う、旅に行く前の自分と帰った自分は違うはず)心でするものな気がして、僕にとっては
故郷がその人にとって過ごしやすいのは当たり前のことで、すばらしいのもきっと当たり前のことで、それでも僕たちはその体と心を砕かれながら、寂しさと悲しさと愛おしさに押しつぶされながら、目に雲を宿して旅をしなきゃいけないんだと思う。

そういえば今日は曇った夜空に月を探して、そして見つからなかった
でも、探すのを諦めて家に帰っている時、眩しいほど輝く月が、
君の方から現れてくれた
井上陽水の歌詞みたいかな どうでもいいね

映画の「ジョーカー」を何人かが絶賛しているので、観に行ってみたのだけど、よくわからなかった というか、主人公の心の動きのようなものが、観客としてわかりすぎて、つまらなかったのかもしれない 人の感情なんてそんな簡単にわかるはずないし、映画だとしても、そんなに簡単にわかりたくない 画面の外にある僕が知ることのできない色々な出来事が、きっとその人にそうさせているんだから、こういうことがあったからこの人はそれをした、みたいな感じにされると、しらける。
こんなに、主人公の次の行動が読めてしまうような映画はまれだな、とも思った
それが嫌だった

僕は君の気持ちがわからない
本当にわからない
本当はめちゃくちゃ考えて、いろんなことを試したけれど、
わからない
それは言葉で伝えればどうにかなるのだろうか?
いや、きっと君も君の気持ちが本当にはわかってなくて
僕もそう

でも、僕は人が理解できない時が、どこかでものすごく嬉しい
心がきらめく気がする

わからない、君の考えてること全然わかんないよ!って、心が輝いていくのを感じる
輝いていくのと同時に、強烈な苦しさや寂しさが刃物のように込み上げてあっけなく心を突き刺していくのだけど
でも、僕はわからない君が好きだ

わからないあなたが

でもそれでも一瞬”通じ合えた”って、一瞬、勝手に感じてしまうその瞬間が

一番好きだけれど

またすぐにわからなくなってしまう

それでも

わからないあなたが好きだ








Mister blue sky please tell us why
You had to hide away for so long (so long)
Where did we go wrong?

ミスターブルースカイ 僕たちに教えて
どうして君は隠れなければいけなかったの? こんなにも長く
どこで僕たちは行き違ってしまったんだろう?