「作品が社会派だね」といわれることがたまにある。
取り組む内容が内容だから、そう言うこともわかるけど、そういわれると「社会なこと」と「社会じゃないこと」がはっきり分けられてしまったような感じがして、すごく寂しい気持ちになる。
ためしにその言葉を大辞林で調べてみると、
だそうだ。なんかださい。
たとえば、誰かが大切なひとを失ったとする。
もうその人は歩けないほどに打ちのめされて、立ち上がれないとする。
それも、その人にとっては、現実の社会問題 だとおもう。
それも最も重大な。
もちろん、社会の教科書に載っているたくさんの事象も大事なんだけど、でもすべて、そういうひとりひとりの個人の苦しみや疑問や、希望や愛情が、本当に複雑に連なって折り重なって、すべての 現実の社会問題 ができているのだから、問題の差はあれど、どれも重大な社会だと思う。
その堪え難い苦痛に、「戦争」とか「震災」ということばがくっつくと、必要以上に距離ができてしまうとおもう。「社会なこと」と「社会じゃないこと」という感じで。
もちろん、「当事者」とそうでないひと(それもはっきりとは分けられないけど)の違いはあって、その心遣いは絶対に必要なんだけど、でも、そういう「社会派」な言葉に騙されて、その奥にいるひとりひとりの社会の問題を感じれないのは、寂しい事だと思ふ。
自分の胸に言い聞かせながら、そんなことを思う6月の夜。
最後に、忌野清志郎の言葉と素敵な歌はっとくぜ。
社会的なメッセージを歌っているのは僕にとってはごくふつうのことなんですよね。
いろいろなことを偏らずに歌わないと。
世間のこととか政治的なこととか、ふつうに歌っていけばいいんですよ。 忌野清志郎
「ひとつだけ」
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