たぶん、このブログ?は、SNSやLINEと違って、ほとんど誰の眼にも触れていないだろう。
なんだか間も空いてしまう。
でも、だからこそ、培えるなにかもあるんだと思って、たまにやっていきたい。
もしかしたら、この先なにかみつかるかもしれない。
そしてこのブログは(ブログ、という響きにあるどこか一昔前で気恥ずかしいかんじはなんなのだろう)いままで何回かの更新は、なんかどんよりしてたので、もう少し気楽にやってみてもいいのかもしれない。
でも、ブログを(何度でも言う)書こうとするのは、大抵深夜だから、なんかどんよりとしてしまう。狂おしくなってしまう。
だったら、ブログ()なんて書かなきゃいいのにともおもうけど(特に誰にも望まれてもいないし)
そこが僕の、くそなところで、なにか、なにかになるかもというキモちわるい願いが、猛威をふるっては過ぎ去っていくのです そしてまた
この前、一年ぶりくらいに会った友達 の話。
大学を卒業して、その人とはそれっきり会っていなかった。
でも、Twitter と Instagram で、つながっていた。
僕のそのての更新はわりと多い(ついアップしてしまうその衝動に勝てない自分が嫌になる)のだが、一年ぶりに顔を合わせた時に、こういわれた。
「SNSで観てるから、すごい会ってる気がする」
悲しいような、嬉しいような、さみしいような、楽しいような、気持ちになった。
一年、というのは僕にしたら結構な年月なのだけど、
その年月が変えようとする”なにか”を、
そういうものは暴いて、だだ流しにして、会っている錯覚を起こしてしまうほど
、生々しい、それがその人 だと"信じて"錯覚してしまうほど、
虚ろな画面のむこうから、親密に人に迫っているのだと、実感した。
僕は照れて笑うほか無く、遠くても近くても無神経に繋がるそのようなもの への幻滅を、あらためておぼえたのだった。
でも、それは同時に、心強いことでもあるし、毎日一分一秒燃え尽きてしまうこの感情の、情景の爪痕を、ネットという謎な大地に書き付けて、それをキャッキャいいながら見せ合う事も、それはそれで素晴らしい事だと、思ったりもする。
生の出逢いの”神秘”のようなもの ”想像” のようなもの
”時”のようなもの を、
SNSはぶっ壊して、ひとを傷つけたりついたりすることも、当然あるとおもうけど、しょせんSNSはSNS、あんまり信じすぎないでいいとおもう
それはそれ、これはこれ、なにせ虚ろな画面に光る切ない情報でしかない
それよりは目の前で生き生きと話す人間を信じたい
でも、実際に会うよりも、そのようなネットの大地(大海?)の言葉を知るほうが、その人のなにか深層のようなものは、知れるのかもしれない。
でも、深層なんてあるのかしれない。
それはそれ、これはこれ、
あれはあれ、君は君だよ。
最後に、その友人との別れ際の会話が印象深かった。
楽しく話したあと、僕が
「SNSで毎日会うのもつまらないから更新するのやめようかなあ」とぼやいたら、
「でも、いいね!とかなにか反応しなくたって、観てる人はいるから、
少なくとも私は、観てるから、たまに届いてるから、たまに更新してね」
そんなようなことをいわれて、僕はSNSに幻滅しながらも、もうすこしやってみようと、ただなにかがなにかへなるそのなにかのなにかになるのかもしれないと、それはぼくだけのことじゃなく、おたがいに生きる事 を届けあえるような関係であれたらと
ほのかな希望を、
この大地に託して
先日 沖縄 に2週間衝撃的な滞在をしたので、かれらを
live in okinawa.. so far..
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