海がうつくしいことを、この前知った。
遅い、と思うかもしれない。
でも、その海はうつくしくてたまらなかった
海がうつくしいことを、ぼくはいままで知らなかったことをそのとき知った
その海は、けっして写真には撮れない美しさをもっていた。
いや、そういういいかたをすると素晴らしいカメラマンの方たちに失礼な言い方かもしれないけれど、その”うつくしい”海は、写真に収めてしまったら、ただのポストカードみたいになってしまう。
綺麗な写真になってしまう。
ましてや僕のポケットのiphoneのカメラではほぼなにひとつぼくが感じた うつくしさ をとらえるものじゃなかった。
沖縄の海。
沖縄に行ったのは、先月が初めてではなく、高校三年生のときに、修学旅行で行ったのだが、そのときには感じなかった、うつくしさ。
それは、あらゆる”記録”として目にする”綺麗な海”の退屈さじゃなかった。
ぼくの両親の出身地香川で、小さい頃よくみていた、瀬戸内海の深い紺にかんじる少し恐い距離感とも違った。
沖縄の海は、あたたかく、透明で、ただ水色で、畏れがあり、途方なくまばゆかった。
まばゆかった
そのまばゆい海をみながらしばらく言葉を失って、
いままで悲しませてしまったひとのことや、嬉しかったことや、自分のちっぽけさを(ありきたりな言い方だけど)、まばゆさ が想い出させて、ぼくを打ちのめした。
まばゆい海
海はただ水がたくさんある場所じゃなかった
もっとたくさんの命の溜まり、流れる場所だったんだということを
うつくしい ばしょだったんだということを、知れた。
なんかなまぬるい文章だし、よくわかんないけど、想い出したので書いてみた。
おやすみなさい。
沖縄の秋はまだまだこないみたい
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