2015年9月25日金曜日

だれもいないうみ


海がうつくしいことを、この前知った。


遅い、と思うかもしれない。

でも、その海はうつくしくてたまらなかった

海がうつくしいことを、ぼくはいままで知らなかったことをそのとき知った

その海は、けっして写真には撮れない美しさをもっていた。
いや、そういういいかたをすると素晴らしいカメラマンの方たちに失礼な言い方かもしれないけれど、その”うつくしい”海は、写真に収めてしまったら、ただのポストカードみたいになってしまう。
綺麗な写真になってしまう。
ましてや僕のポケットのiphoneのカメラではほぼなにひとつぼくが感じた うつくしさ をとらえるものじゃなかった。

沖縄の海。


沖縄に行ったのは、先月が初めてではなく、高校三年生のときに、修学旅行で行ったのだが、そのときには感じなかった、うつくしさ。

それは、あらゆる”記録”として目にする”綺麗な海”の退屈さじゃなかった。

ぼくの両親の出身地香川で、小さい頃よくみていた、瀬戸内海の深い紺にかんじる少し恐い距離感とも違った。


沖縄の海は、あたたかく、透明で、ただ水色で、畏れがあり、途方なくまばゆかった。

まばゆかった

そのまばゆい海をみながらしばらく言葉を失って、
いままで悲しませてしまったひとのことや、嬉しかったことや、自分のちっぽけさを(ありきたりな言い方だけど)、まばゆさ が想い出させて、ぼくを打ちのめした。

まばゆい海

海はただ水がたくさんある場所じゃなかった

もっとたくさんの命の溜まり、流れる場所だったんだということを
うつくしい ばしょだったんだということを、知れた。


なんかなまぬるい文章だし、よくわかんないけど、想い出したので書いてみた。


おやすみなさい。











沖縄の秋はまだまだこないみたい



2015年9月14日月曜日

Killing Me Softly


英語を勉強せねばならない。


これ、何年同じこと言ってるんだろう。

そして、僕のまわりにも、同じことを言ってる友人が、何人もいる。

おおくの、英語の話せない日本人は、英語話せるようになりたい、と思ってるだろうな。

でも、”話せる”ようになるには、


目を閉じて、

英語の名曲のフレーズをひとつふたつ口ずさんで、

バドワイザーを一飲みして、

ふたたび目を開けたら



話せるようになるわけじゃない。






毎日毎日、言葉や文法を覚えて、話せる人と話し、指摘してもらい、英語の本を読み、わからない部分は調べ、覚え、話し、お金を払ってスクールに通ったり、テキストを買ったり、恥をかきながら、時間を費やしながら、

勉強
しなきゃいけない。



わかりきったことだ。



中学1年生の二学期からもうわかっていたことだ。

”勉強”しないとわからないのだと。


Ms.Green が、何言ってるのか、さっぱりわかんないのだと。





今、24歳だ。
一説によると人間の脳が柔軟に新しいものを吸収するのは25歳くらいがひとくぎりらしい。


だとすると、やばい
一生japaneseしか喋れない人になってしまう。


いや、全然いいんだよ、本当はそれで。
japaneseしか喋れなくていいんだとおもう。


Englishしか喋れないひとがこの世にどれだけいるのだろう


でも、だめなんだ


すごく残念だけど



japaneseはjapaneseとjapanに深い理由のある人しか話さないから。

だけどenglishは

くらべものにならない多くのひとが喋るから

ただそれだけのりゆう


englishが生まれつき喋れるひとはほんとにらくだよなあ。(率直)
そのままの顔つきで、おおくのひとと話せるんだからなあ。
え、話せないの?ぐらいのかんじで…

でもそんな、つまらないことを言ってる場合じゃないんだよな


その完全なるコロニアルな世界観は、ほんとに気に食わないけど、
そんなことを言っても世界は変わらない (僕一人が変わったほうがはやい)

でも、勉強しようとすると苛々する。


でも、勉強しないと、なにもわからないままだ。


わかりたい。


純粋に、おおくの英語を話す人と話したいし、

現代美術は 紛れも無く英語圏の文化だし、


そもそも話せないという選択肢がないんだよな。


自分が人生に希求するものをちょっとでも考えたときに。




でも、勉強は続かないけど、でも、でも、

いや


but!!



I want to speak English because I want to meet somebody in this world!
だめだ…

でも、そうしなきゃいけない。


世界はゆるしてくれないのだ。


それでも世界はtoo much love


果てしなくつづくのだ


愛してるよ








歌詞の意味がよくわからないのとかなによりつらいしね






2015年9月13日日曜日

幻滅



たぶん、このブログ?は、SNSやLINEと違って、ほとんど誰の眼にも触れていないだろう。

なんだか間も空いてしまう。
でも、だからこそ、培えるなにかもあるんだと思って、たまにやっていきたい。

もしかしたら、この先なにかみつかるかもしれない。


そしてこのブログは(ブログ、という響きにあるどこか一昔前で気恥ずかしいかんじはなんなのだろう)いままで何回かの更新は、なんかどんよりしてたので、もう少し気楽にやってみてもいいのかもしれない。

でも、ブログを(何度でも言う)書こうとするのは、大抵深夜だから、なんかどんよりとしてしまう。狂おしくなってしまう。

だったら、ブログ()なんて書かなきゃいいのにともおもうけど(特に誰にも望まれてもいないし)
そこが僕の、くそなところで、なにか、なにかになるかもというキモちわるい願いが、猛威をふるっては過ぎ去っていくのです そしてまた




この前、一年ぶりくらいに会った友達 の話。



大学を卒業して、その人とはそれっきり会っていなかった。
でも、Twitter と Instagram で、つながっていた。

僕のそのての更新はわりと多い(ついアップしてしまうその衝動に勝てない自分が嫌になる)のだが、一年ぶりに顔を合わせた時に、こういわれた。




「SNSで観てるから、すごい会ってる気がする」



悲しいような、嬉しいような、さみしいような、楽しいような、気持ちになった。

一年、というのは僕にしたら結構な年月なのだけど、
その年月が変えようとする”なにか”を、
そういうものは暴いて、だだ流しにして、会っている錯覚を起こしてしまうほど
、生々しい、それがその人 だと"信じて"錯覚してしまうほど、
虚ろな画面のむこうから、親密に人に迫っているのだと、実感した。


僕は照れて笑うほか無く、遠くても近くても無神経に繋がるそのようなもの への幻滅を、あらためておぼえたのだった。


でも、それは同時に、心強いことでもあるし、毎日一分一秒燃え尽きてしまうこの感情の、情景の爪痕を、ネットという謎な大地に書き付けて、それをキャッキャいいながら見せ合う事も、それはそれで素晴らしい事だと、思ったりもする。



生の出逢いの”神秘”のようなもの ”想像” のようなもの


”時”のようなもの を、


SNSはぶっ壊して、ひとを傷つけたりついたりすることも、当然あるとおもうけど、しょせんSNSはSNS、あんまり信じすぎないでいいとおもう

それはそれ、これはこれ、なにせ虚ろな画面に光る切ない情報でしかない
それよりは目の前で生き生きと話す人間を信じたい

でも、実際に会うよりも、そのようなネットの大地(大海?)の言葉を知るほうが、その人のなにか深層のようなものは、知れるのかもしれない。

でも、深層なんてあるのかしれない。
それはそれ、これはこれ、
あれはあれ、君は君だよ。



最後に、その友人との別れ際の会話が印象深かった。



楽しく話したあと、僕が

「SNSで毎日会うのもつまらないから更新するのやめようかなあ」とぼやいたら、

「でも、いいね!とかなにか反応しなくたって、観てる人はいるから、
少なくとも私は、観てるから、たまに届いてるから、たまに更新してね」

そんなようなことをいわれて、僕はSNSに幻滅しながらも、もうすこしやってみようと、ただなにかがなにかへなるそのなにかのなにかになるのかもしれないと、それはぼくだけのことじゃなく、おたがいに生きる事 を届けあえるような関係であれたらと



ほのかな希望を、



この大地に託して











先日 沖縄 に2週間衝撃的な滞在をしたので、かれらを

live in okinawa.. so far..